代表☆ 金谷尚美
1989年 |
カリフォルニア州立大学 バークレー校 |
1990年 |
イタリア家具輸入業 CAVITAL 通訳秘書勤務 |
1991年 |
東京外語専門学校 通訳ガイド科 卒業 |
1993年 |
ECCジュニア 静岡センター |
1999年 | 4月 KID'S ENGLISH 設立 現在に至る |
☆ 英検準1級 ☆ TOEIC 915点(2014年7月) ☆ |
趣味☆
旅行・音楽・料理・ファッション・語学・Mac・ダイビング・サーフィン・和太鼓
今まで旅行した場所☆
California☆ Washington☆ Colorado☆ Nevada☆ Oregon☆ New Orleans ☆Florida☆ Washington DC ☆ Can cun (Mexico) ☆ Oafu ☆ Maui ☆London ☆ Cotzwolds ☆ Malaga ☆ Granada ☆ Sevilla ☆ Barcelona ☆ Thailand ☆ Korea ☆ Vietnam ☆ Maldive ☆ Singapore ☆ Germany ☆ Switzland ☆ Spain ☆ Australia
国内で行っていない都道府県は 鳥取 島根 福井 愛媛 佐賀・・・
全ての都道府県制覇したいな!
https://biz.q-pass.jp/f/4512/edix_kansai22_seminar/seminar_register
表紙・教室紹介 http://www.juku-kyoiku.com/
-株式会社 SRJ秋期定例研修会-
教科別必勝ポイント55 (コツがわかる本!ジュニアシリーズ)
KID'S ENGLISH のあるじ。NAOMI なおちゃん先生
高校時代に服部マコさんに憧れて「絶対通訳になる!」と夢を抱き、大反対する親を大説得し高校三年生の夏に一人でカリフォルニアへ。頭ごなしに親に大反対されたので、自分で留学機関を調べ、いろんな学校の情報を集めて、「この学校に4週間行きたい。ホームステイさせてくれる家も探した。絶対返すから、留学資金を貸して欲しい。」と頼み込んだ。
それでも説得するのは本当に大変だった。でも諦めずにあの手この手を考えて、なんとか行かせてもらえた4週間のアメリカ。空も大地も海も食べ物も全てが大きかった。
大きな夢と希望を持っての初渡米。中学・高校で好きだった英語は全く通じなかったというか、何を話しているのかさえ聞き取り理解不能だった。当然一番下のクラスに入る。いろんな国の人がいた。話してみたいと思っても、何を話していいのかさえわからなかった。17歳の私はクラスでは一番年下だったし、ホームステイ先の12歳のホストシスターより子供っぽく見えたし、感じたし。情けなかった。
日本人大学留学生がたくさんいた。名高い大学の生徒さん達もたくさんいたけれど、みんな英語ができなかった。
「このまま大学に行っても、私は英語が話せるようにならないんじゃないか。。。。」
あの高校三年生の一ヶ月間の思い出は全てがなんとなく寂しげな水色がかって覚えてる。運河の近くの素敵なお家。お母さんと娘の二人家族。まさにアメリカンウーマン!って感じのホストマザーには素敵な恋人が居たなぁ。山を登った所に彼のコテージ風なお家があって、そこまで結構距離があるのに、彼は自転車で移動していて本当にびっくりしたっけ。 週末はポニーを連れて海に泳ぎに行ったり、シーワールドに連れて行ってもらったり。日本の食べ物が恋しかったり、あまり話せないから部屋で日本から持ってきた勉強道具に励まされたり。笑 滞在中、ずーーーっと軽くホームシックだったと思う。
夏休みを終えて、帰って来てみると、母校は夏の甲子園地区予選で決勝線で負けていて、「歴代残る名勝負」として今でも語り継がれているものすごい試合を見逃した・・・っと とっても残念な気持ちだったし、友達はなぜか。。。みんな坊主頭におかっぱオンザ眉毛にさせられていた。どうやら打ち上げで弾けすぎたらしい。。。
そんな夏を過ごした後、「やっぱり私は英語ができる人になりたい。」と決意を固め、通訳専門学校に通う事にやはり自分で決めてしまった。先生は反対してたのは覚えてる。でも親が反対していたかどうかは正直覚えてない。というか。。。きっと聞く耳ももう持っていなかったのかもしれない。
専門学校に入った。住処は寮。 日本全国からいろんな目的を持って学校に来ている仲間との生活は、一人っ子の私にとって、毎日友達と一緒なんて最高!と楽しかった。
一番上のクラスに入った。25人のクラスメイトの内、何人かは既に流暢な英語を話せていて、ほんと、この人たち宇宙人みたいだ!って思った。 彼女たちは“帰国子女” と呼ばれる人たちだった。 今までの人生で見た事もない 聞いた事もないタイプの人たちだった。 ネイティブの先生達と何の問題もなく笑いながら話している彼女達がとにかく羨ましかった。
全く話せない自分は一度はなってみたものの『通訳とは自分の意見が言えない フィルター役・・・ 涙』 好 奇心旺盛で人とのコミュニケーションが大好きな私には ・・・ “性”に合っていなかったのかな。。と自分探しを再スタート。
得意である“英語を使った職種”を 色々渡り歩いた。
通訳 翻訳 秘書 ガイド 事務 営業
とにかく 自分が何ができるのか。 何がやりたいのか。やってみなくてはわからない。自分のアンテナを信じて 端から見たら“プー太郎” 私から言わせれば立派な “就活” 今思うと 若さってすごい。 (笑)
そんな風に過ごしながら約1年。 縁があって英語教育の世界に出会う。
面白かった。
でも 英語を教える方法など 何も知らなかった。
この業界でも、色んな会社・教室で働いてみた。 ポリシーは“Seeing is believing.” 百聞は一見にしかず。
この強い心は アメリカ留学で充分身につけた。他人の意見ではなく、自分で判断しなくちゃいけないこと。いい悪いは自分で決めること。 人生にブツブツ文句言っている暇などない。
いざ この業界に入ってみると。。。
教材を高く売るだけの無責任英語教育会社。
「さぎだ」と思えるシステムばかりの教室。
何年行っても行ってるだけの教室。
オーナーの理念が教育とは全く程遠い名声だけを求めた訳の解らない学校。英語ってみんな話せるようになりたいと思っているのに、それを利用して「商売」が先行するような所が多かった。
大体現場の講師の給料が安い学校は NG “変えは いくらでもいる。” ぐらいの 勢い。
そんなもんなのかな。。。 と。 世の中冷めた目で見ようとも 中々熱い血は収まらない私だった 20代前半。
しかし・・・。 ある大手全国展開英会話教室が私を大きく変えた。
素晴らしい理念と教育に対する真面目な姿勢。指導法・カリキュラムに対する真剣な取り組み。創始者が1つの腕で初めて あれよあれよと30年の時を越えて 急成長した あの 会社。
正に働きながら勉強させてもらえる絶好の機会だった。
営業 教育研修 カリキュラム作成 イベント企画 広告 集客 なんでもありの “スタッフ仕事” (笑) 結構しんどい職場で、同期はズンズン辞めていく。でも色々渡り歩いて来た私にとって、給料を貰ってこんなに色々学べるなんて!と本当に楽しかった。
そんな職場だったから、長く働いている先輩たちの仲には タフでスンバらしい人たちが沢山居た。 もちろん諦めてボスの言うなりに Yes, Sir!! と 仕事をしている人たちも居た。 でも、上司たちは様々だったし、女性が多い職場と言う特質もあるのか、風通しは良かった。 これを!! と プレゼン すれば『やってみな。』 と 信じて任せてもらえる雰囲気はあった。細かい事は本社から目が届かないから、 “結果オーライ” な 自由な社風が私にピッタリだった。
ガツガツ吸収してどんどんいい仕事を学ばせてもらった。
日本全国回って色んな先生・色んな教室・色んな生徒に逢えた。とても充実した7年間のサラリーマン時代。
次にステップアップしたかった。この会社で東京・大阪に出てもっと色々な仕事をしたかった。でも結婚もしていたし、病気がちな母も具合はあまり 良くなかった。 このまま居たら きっと 悶々としてしまうだろう。。。と きっぱり仕事を辞めた。 フリーの身になった。
仕事を辞めて暫く委託の研修・通訳などの仕事を受けていたけれど、隣りの家の“みほちゃん”が 『なおちゃん。英語教えて。』と 声をかけてきた。
1人教えるも 何人教えるも 同じ事。 そして 英語を教えると言う職業は私自身とても好きな仕事になっていた。これがきっかけで『こども 英語 英会話 杉山』 と、うたって新聞折込で生徒募集をかけた。
ありがたいことに・・・ 当所 13名の生徒さんが集まってくれた。 あのチラシを見て。。。 うぅうう。。涙。ありがとうぉ!!
初年度は週に1日 次年度は2日 その次は3日 その次は5日。。。。
気がつけばフルタイム稼動の教室に成長。
子供が好き。可能性が好き。絶対前向き。
児童英会話はとてもやりがいがあり楽しく可能性が宝箱のように秘められているから大好き。
子供たちにとって「楽しい」と言うのはもちろん遊んでいる時かもしれない。でも「わかった!」「できる!」と言う知的楽しみはもっと強烈で刺激のあるもの。
そんな瞬間を一緒に子供たちと共有できるこの仕事は感動の毎日で楽しい。これから大人になってゆく子供たちに「英語」と言う道具を使えるようになって少しの勇気と自信を持ってどんどん地球を制覇!?して行って欲しいと願い、日々 自分にできること。探し続けています。
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iTeachers TV 金谷尚美氏